太宰治の「冬の花火」を読んで
久しぶりに投稿します。
遅くなりましたが、
本年もよろしくお願いいたします。
先日、太宰治が戦後に発表した戯曲「冬の花火」を読みました。
そして、なんとも言えない気持ちになりました。
その一節を紹介します。
負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、それをまあ、恥かしいとも思わずに、田舎の人たちったら、馬鹿だわねぇ、いままでどおりの生活がいつまでも続くとでも思っているのかしら、相変らず、よそのひとの悪口ばかり言いながら、寝て起きて食べて、ひとを見たら泥棒と思って、(また低く異様に笑う)まあいったい何のために生きているのでしょう。まったく、不思議だわ。
あるいは、次のような一節もあります。
いつから日本の人が、こんなにあさましくて、嘘つきになったのでしょう。みんなにせものばかりで、知ったかぶってごまかして、わずかの学問だか主義だかみたいなものにこだわってぎくしゃくして、人を救うもないもんだ。人を救うなんて、まあ、そんなだいそれた、(第一幕に於けるが如き低い異様な笑声を発する)図々しいにもほどがあるわ。日本の人が皆こんなあやつり人形みたいなへんてこな歩きかたをするようになったのは、いつ頃からの事かしら。ずっと前からだわ。たぶん、ずっとずっと前からだわ。
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以上で取り上げた文章を見ると、
太宰が戦後の日本人に対して抱いていた
疑問や不満の大きさがよく分かります。
それでは、彼が
戦後の日本人に対して抱いていた疑問とは何でしょうか。
おそらく、それは、
日本の敗戦によって
国民共通の価値観が崩れるという
大きな変化が生じているにもかかわらず、
まったくそのような事態に気付かないで、
あるいは、
仮に気付いていたとしても
それを直視しようとしないで、
相変わらず8月15日以前と
同じように生きている
日本人の鈍感さ、
あるいは、
図々しさに対する不満であったのではないでしょうか。
もしかすると太宰は、
日本の敗戦によって、
日本人が大きく変化することを
期待していたのかもしれません。
しかし、
実際の日本人は、
太宰の期待に反して、
何も変わろうとしなかった、
ということではないでしょうか。
約70年前に書かれた、この文章ですが、
現在を生きる私たちが読んでも、
何かひっかかるものがあるのではないでしょうか。