元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

はじめチョロチョロ、中パッパ

私がひきこもりから脱するときに、
いろいろと尽力してくださった先生は、


何事にも
成功するには秘訣というものがあって、
それは、大体、
「はじめチョロチョロ、中パッパ、最後にじっくりと蒸す」
で表すことができる


とおっしゃっていました。



この言葉は、本来、ご飯などをおいしく炊くときの手順を表すものですが、
先生は、
この言葉は、他にも応用できる、成功の秘訣を表す言葉だ、
と考えていたようです。



ひきこもりから脱する前の私は、
何をしても上手くいきませんでしたが、
上手くいかない理由は、
今から考えると、
はじめチョロチョロ
ができていなかったからかもしれません。


当時の私は、
何か新しいことに挑戦する際、
1日目がやる気のMaxで、
自分の力のすべてを出し切ろうとしていました。
これでは、2日目以降に苦労をすることは目に見えているのですが、
当時の私は、そのことに気が付きませんでした。


その後、
それなりに経験を積んで、いろいろと学ぶことによって、徐々に
はじめチョロチョロ」の大切さが分かってきました。



現時点での私の結論は以下の通りです。
(もちろん、正しいかどうかは分かりません)


何か新しいことに挑戦する際、
はじめのうちは、
何か頼りないな、こんなやり方で大丈夫かな、
と少し不安に思うぐらいが丁度よいのではないでしょうか。
そのほうが、かえって長続きするような気がします。


そして、ある程度慣れて、リズムがつかめてきたところで
中パッパ」と行けばよいのです。




社会に復帰して間もない頃、
私は、食堂で、大勢の人と一緒にご飯を食べるのがつらかったので、
人の少ない場所を見つけて、
よく、一人でカロリーメイトを食べていました。


↓のCMのように、表舞台で格好良く戦う人たちのためだけではなく、
私のような者のためにも、
カロリーメイトは欠かせない商品です(笑)



【泣ける】グッとくる カロリーメイト CM 3選 満島ひかり 涙腺崩壊 夢をあきらめないで 平愛梨 妹 平祐奈






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寛容であることの大切さ

昨晩、
「橋下×羽鳥の新番組(仮)」(テレビ朝日系列)の中で、
尾木直樹(尾木ママ)さんが、
「自分の子供の入学式に出ることを優先して、
職務としての入学式を休んだ先生」
のことを非難していた。


最初は、私も、それは少し問題があるのではないか、
と思ったが、
尾木さんの後に行われた、

橋下徹さんの反対意見を聞いているうちに、
そんなに目くじらを立ててまで非難することではないか、
と思い直した。


確かに、私が先生であれば、おそらく、
自分の子供の入学式を優先することはしないと思う。
でも、だからと言って、
自分の子供の入学式を優先した人のことを
否定する必要まではないのではないか、
と思い直したのだ。


冷静に考えれば、
自分の子供の入学式に出ることを優先するという
価値観をもった人がいても、
別におかしくない。


むしろ、ひとつの社会の中といえども、
様々な価値観をもった人が混在している、
というほうが自然なのではないか。


橋下徹さんに
「寛容であることの大切さ」
を教わったような気がする。


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「朝三暮四」を考える

『荘子』内篇、齊物論篇(せいぶつろんへん)に、
有名な「朝三暮四」の話が出てくる箇所があります。
そこを私なりに、以下のように訳してみました。


  〈原文〉
  勞神明為一而不知其同也、謂之朝三。
  何謂朝三?
  狙公賦芧、曰、「朝三而暮四。」
  衆狙皆怒。
  曰、「然則朝四而暮三。」
  衆狙皆悦。
  名実未虧而喜怒為用、亦因是也。
  
  〈訳〉
   (人は、意見の違う人を説き伏せて、自分の意見と)同一にしようと
  神経をすり減らしているが、(そもそも、まったく違うように見える
  自他の意見自体が)実は同じものであることを知らない。これを「朝三」
  という。
   「朝三」とはどういうことか。(それは次のような話である。)
   (朝、)猿回しの親方が猿たちに芧(とち)の実を与える際に、「朝
  に三つ、夕方に四つやろう」と言った。
   猿たちはみな怒った。
   そこで親方は、「それならば朝に四つ、夕方に三つではどうか」と言
  った。
   すると、猿たちはみな喜んだ。
   結局は同じことを言っているのに、一方では喜び他方では怒ることに
  なるのは、やはり(先入観・主観にとらわれて歪んだ)是非の判断に依
  拠するからである。


この説話が言いたいのは、
「目先の利に目がくらんではいけませんよ」ということでしょうか。
確かに、そのような読み方もできますが、
私は、この説話には、もっと重要な教訓があるように思います。


荘子がこの説話で一番伝えたかったのは、
「人というのは、自分たちが思うよりも、
先入観・主観にとらわれた、
歪んだものの見方・考え方をしているんですよ」
ということだったと思います。




心理学を勉強すると、
「ミュラー・リエールの錯視」(↓図1)というものに出会います。



①の線分abと、②の線分cdの長さはまったく同一なのですが、
なぜか、ほとんどの人が②の線分cdのほうが長いと感じます。


これは、①と②の線分の両端についた
「外向きの矢印」と「内向きの矢印」に
惑わされた結果だそうです。



これは少し極端な例かもしれませんが、
「私たちは、
先入観・主観などを通して物を見るので、
自分が思っているよりも
実物どおりに物事が見えていないときもある」
ということはできるのではないでしょうか。


それでは、
私たちは、先入観・主観をなくすように
努力すべきなのでしょうか。


私は、そうではないと思います。
荘子も、そんなことは不可能である、
と考えていたのではないでしょうか。


私たちがすべきことは、
「私たちは、
先入観・主観などを通して物を見ているので、
自分たちが思っているよりも
実物どおりに物事が見えていないときもあるんだ」
という視点をもつことではないでしょうか。


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