元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

芭蕉の句を妄想する

  荒海や 佐渡によこたふ 天河


この句は
松尾芭蕉の『奥の細道』に出てきます。


この句について
私は、いろいろと想像力をふくらませてみました。


以下の文章は、
この句についての私の勝手な解釈にすぎませんので、
どうぞ、そのつもりでお読みください。


まず私は、この句のポイントは
「よこたふ」にあるように
思いました。


この句は、
芭蕉が、
海の向こうに佐渡島が見える、
新潟の地にいるときに
作られたものだそうです。


つまり、芭蕉の目には、
海を隔てた、向こう側に、
横に大きく広がる(横たわる)佐渡島が見えています。


また、上に目を転じると、
空の高いところには、
あまのがわが広がっています(横たわっています)。


私は、ここで、
「平行線」という言葉を連想しました。


つまり、
「芭蕉がいるところ」と佐渡島、
あるいは、
「芭蕉がいるところ」と天の川は
平行線で、
どこまで行っても交わることがない、
といったイメージです。


すなわち、
それぞれが独立している、
といった感じです。


「荒海や」は、
芭蕉の心を表していて、
このとき、
芭蕉の心は
穏やかではなかったのでしょう。


しかし、
「それぞれは独立しているんだ」
と気づくことによって、
芭蕉の心は軽くなった、と
私には思われました。


この句の後には、
次のような句が登場します。


  一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月


私は、この句のポイントは、
「萩と月」にあると思います。


萩と月を並列する場合、
普通は、月が先に来るのではないでしょうか。
「月とすっぽん」という言葉もあります。


ところが、この句は、
萩が先に来ています。


これはどういうことでしょうか。


私は、
「それぞれは独立している」ことに気付いた芭蕉が、
あえて萩を先にもってきたのだと解釈します。


萩と月とを比較して、
萩よりも月をよしとするのは、
人の一つの価値判断にすぎません。


というより、
二つのものを比較して、
一方が他方よりも優れている
と決めつけることに
どれほど意味があるのでしょうか。


ですから、本当は、人も、
あの人のようになりたい、と
他人のことをうらやんだり、
あの人よりはましだ、と
他人のことをさげすんだりする必要はないのです。


第一、萩や月自身、
どちらが上で、どちらが下かなど、
気にしたことがあるでしょうか。


そんなことを気にするのは
人間だけです。


だから、
遊女さん、
あなたも
ただ、あなたの道を進めばよいのです、
といった気持ちで、
芭蕉はこの句をつくった、と
私には思われました。


以上、
かなり自由に
想像力を働かせてみました。


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犬のおまわりさん

童謡「犬のおまわりさん」を
聞く機会があり、
改めて、
その歌詞を
最後まで じっくりと見てみました。


すると、
この歌は、
私たちがよく知る、
「ただ鳴いてばかりいる子猫ちゃんを前にして、
犬のおまわりさんが困り果てて途方に暮れてしまう」
という1番の歌詞から
特に話が展開することもなく
終わってしまう、
ということを知りました。


いったい、どうして
このような歌詞が
思い浮かんだのでしょう。


私は、そのことが
すごく不思議に思われてきて、
少し想像力の翼を膨らませてみました。


以下の文章は、
ただ私が想像したものです。


おそらく
この歌の作詞者さんは、
「ただただ心細そうに泣き続ける子猫のそばに
やってきた親切な犬」
の光景を実際に目撃したのではないでしょうか。


その犬は、
鳴き続ける猫のために
いろいろしてあげたのかもしれません。


しかし、
子猫はいっこうに鳴きやみません。


ついに、
万策尽きはてた犬ではありますが、
それでも
子猫のそばを離れようとはしません。
いつまでも
子猫のそばに寄りそっています。


この一部始終を目撃した
作詞者さんは、
「何か美しいものを見たな」
と感じたのではないでしょうか。


確かに、
この犬は、
子猫がかかえていた問題を
何も解決してあげることはできませんでした。
しかし、
そんなことよりも
もっと大切な何かを
この犬は見せてくれたのではないでしょうか。


しばらくして
作詞者さんの頭の中に
「犬のおまわりさん」の歌詞が生まれました。


以上は、
ただ私が想像しただけのものにすぎないのですが、
一応、書いてみました。


いぬのおまわりさん 童謡(どうよう)日本の歌(にほんのうた)|♬まいごのまいごの こねこちゃん



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呼吸法と間

今日は、
私が
ある先生から教わった
呼吸法について
少し紹介したいと思います。


ただ、紹介するといっても、
私自身、
その先生が教える呼吸法を
完全にマスターしたわけではないと思いますので、
そこのところは十分に考慮してお聞きください。


それでは、
触りだけではありますが、紹介したいと思います。




まずは、
呼吸法をするにあたっての
心構えから始めたいと思います。



呼吸法をしているときは
できるだけ
何も考えないようにします。


ただ、
何も考えないというのは
結構難しいことでありますので、
代わりに、
「頭がからっぽ」というイメージを持つようにします。


何か余計なことを考えないように、
「頭がからっぽ」であるとイメージします。



また、
最初のうちは、
「形」や「正しいやり方」
というものに

あまりこだわらないようにします。


呼吸法を行っているときに、
「気持ちよくできている」と感じることができたら、
それが正しいやり方です。


もちろん、
呼吸法にも正しいやり方というものはありますが、
最初のうちは、
正しいやり方よりも、
気持ちよくできているかどうか、
に注目するほうがよいそうです。


たぶん、このスタイルは、
「より気持ちよくできるやり方」を追い求めることこそが
「正しいやり方」に近づく道だという考え方からきているのだと思います。


それでは、具体的な方法に移ります。


まず、呼吸法は、室内で行うことが多いと思いますので、
呼吸法を行う前の準備として、
呼吸法を行う部屋の窓を開けて
外の新鮮な空気を入れます。


そして、いよいよ実際に呼吸法を行います。


呼吸法には
「簡単な動き」と「深呼吸」を組み合わせたものもありますが、
今日は、「深呼吸」だけのものを紹介します。


と言っても、やり方はすごく簡単です。


基本的には、
「1,2,3,4」で鼻からゆっくり息を吸い込んで、
「5,6,7,8」で口からゆっくり息を吐きだすだけです。


呼吸法を行うときは
姿勢を正しますが、
姿勢を正すと言うと、
中には、ピンと背筋を伸ばさなければならないと思い、
ついつい余計な力が入ってしまう人もいますが、
それは正しいやり方ではありません。
(もちろん、最初のうちは、正しいやり方よりも、
気持ちよく行うことを優先させたほうがよいことは先述した通りです)
正しいやり方は、
体幹の部分(=体の中心線)だけをまっすぐにして、
他は緩める、というものです。
ですから、姿勢を正した時に、
肩に力が入っていたら、それは正しいやり方ではありません。


また、呼吸法は、基本的には、
立っておこなっても、座っておこなっても構いません。
座り方も、椅子に座っても、正座でも自由です。
もちろん、きちんと形が定まった呼吸法というものもありますが、
初心者のうちは、あまりそういうことにこだわらなくてもよいと思います。
とにかく、気持ちよくできることが一番です。


初心者さんは、座って行ったほうがやりやすいと思います。


それでは、以下で、少し詳細に説明します。


「1,2,3,4」では、鼻からゆっくり空気を吸い込むのですが、
その際、へその下(「下丹田=かたんでん」といいます)から
外の空気を吸い込むようにイメージします。
実際は、鼻から外の空気を吸い込むのですが、
頭の中で、
へその下から、鼻の穴を通して、外の空気を吸い込む、
というふうにイメージするのです。
もちろん、最初からこんなことが上手にできるわけがありません。
最初のうちは、へその下から空気を吸い込んでいる、というイメージで、
鼻から気持ちよく空気を吸い込むだけで十分です。


「5,6,7,8」では、口からゆっくり息を吐きだすのですが、
その際も、へその下から息を吐きだすようにイメージします。
息は、
歯と歯の間から「すー」と吐き出しても、
唇と唇の間から「ふー」と吐き出しても、
どちらでもよいと思います。


あと、
「1,2,3,4」と「5,6,7,8」は
「1秒、2秒、3秒、4秒」と「5秒、6秒、7秒、8秒」
のことではありません。
あくまで、その人が、
気持ちよく息を吸いきれる時間のことであり、
気持ちよく息を吐ききれる時間のことであります。
ですから、
「1,2,3,4」が
約5秒である人もいれば、約10秒である人もいます。
ただし、
「1,2,3,4」と「5,6,7,8」の時間の長さが極端に違ってしまう人は、
少し注意したほうがよいそうです。
ちなみに、昔の私は、この2つの長さが極端に違っていました。
ですから、もし可能であれば、
誰かに「1,2,3,4」と「5,6,7,8」の長さを計ってもらい、
この2つの長さに極端な違いがないかどうかを確認するのもよいかもしれません。
そして、もし極端な違いがあれば、
長いほうを短くするように(あるいは、短いほうを長くするように)
少し意識したほうがよいかもしれません。


最後に、
「間(=ま)」の大切さを紹介させていただきます。
先生は、事あるごとに
「間」の大切さを力説しました。


間のない人のことを間抜けといい、
間が長いことを間延びという


は、先生の口癖でした。
ですから、呼吸法を教える際も、
一番のポイントは「間」であったように記憶しています。
先生の呼吸法は、
「1」の前にまず「間」を入れてからスタートします。
そして「4」まで行った後、一旦、吸うことも吐くこともしない短い時間(=「止めて」)を作ります。
その後、「5」の前にまた「間」を入れてから、「5,6,7,8」と再開します。
そして、「8」の後に「間」を入れて、最後に余韻を楽しみます。
以上が呼吸法の1セットです。
2セット目を行う場合は、また「1」の前に「間」を入れてから始めます。
ですから1セットの一連の流れは次のようになります。


「間」→「1,2,3,4」→「止めて」。「間」→「5,6,7,8」→「間」

(「間」と「止めて」は、1秒か2秒の短い時間です。

「1,2,3,4」と「5,6,7,8」は、5秒でも20秒でも構いません)


このような先生の「間」の教えが、
私のひきこもりからの脱出に
どれほど直接的な影響を与えたのかは分かりませんが、
少なくとも、事実として、
私は、先生と出会って以降、「間」というものを少しずつ意識するようになりました。
おそらく、「間」の教えは、私のひきこもりからの脱出によい影響を与えてくれたのだと思います。


ここからは余談です。


その後、
安土桃山時代の絵師・長谷川等伯によって描かれた「松林図屏風」(国宝)を見たとき、
私は、「間」の大切さが、ようやく少しだけ自分でも理解できたような気がしました。
「松林図屏風」は、屏風の画面全体に松林が描かれているわけではありません。
所々に松林が見え隠れしているだけで、画面の約半分は余白が占めているのです。
これで「松林図屏風」とは一体どういうことでしょうか。
どうやら「松林図屏風」というのは、
「少し見え隠れする松林」と「画面の約半分を占める余白」から、
うっそうとした松林をイメージさせるように描かれた絵であるらしいのです。
つまり、何も描かれていない部分に、ものすごく価値をもたせた作品なのです。
これは、「間」の大切さに通じるのではないでしょうか。


今の日本人は「物」にばかり目が行きがちであるように思われます。
しかし、昔の日本人は必ずしもそうではなかったのかもしれません。
「空間」や「無」、「間」といったものにも
もう少し目を向けていたのではないでしょうか。
私は、今の日本人も、もう少し、そういったものに目を向けてもよいのではないかと思います。


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