元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

アメイジング・グレイス

「アメイジング・グレイス」という曲は、
多くの歌手によって
歌われてきたのではないでしょうか。


私も、何度もこの曲を聞く機会があり、
そのたびに
厳かで美しい曲だなと思ってきました。


しかし、今回、
小さな女の子が歌う
↓の「アメイジング・グレイス」を聞いて、
この曲は、ただ厳かで美しいというだけではないんだ、
と気づかされました。


↓の「アメイジング・グレイス」からは、
歌詞がすっと耳に入ってきました。
だから、↓を聞いて、
「アメイジング・グレイス」が
ぐっと身近に感じられるようになったのだと思います。


私が↓の「アメイジング・グレイス」を聞いて
思ったのは、次のようなことです。


それは、
この曲は、
「ああ、やはり神様はいらっしゃったのだ」
と初めて気づいた瞬間の感動をうたったものだ、
ということです。


私は、これまで、
宗教を深く考える機会のほとんどない
人生を送ってきましたので、
もちろん詳しくは分かりませんが、
それでも、この曲の歌詞から、
神様の存在に気付く瞬間のすごさは
想像できました。


私は、
過去に
長期間のひきこもりを経験しましたし、
今でも対人緊張などで
それなりにもどかしい思いをしています。


しかし、こんな私でも、
もし神様の存在に気付くことができたら、
過去から現在までの
あらゆる経験の一切が
これでよかったのだ、本当にありがとうございます、
と思えるようになるのだろうか。


と、こんなことを思ったりもしました。


なんだか
馬鹿なことを言っているのかもしれませんが、
↓の「アメイジング・グレイス」を聞いて
思ったことを
率直に書いてみました。


アメージング グレース/歌/英語、日本語字幕




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芭蕉の句を妄想する

  荒海や 佐渡によこたふ 天河


この句は
松尾芭蕉の『奥の細道』に出てきます。


この句について
私は、いろいろと想像力をふくらませてみました。


以下の文章は、
この句についての私の勝手な解釈にすぎませんので、
どうぞ、そのつもりでお読みください。


まず私は、この句のポイントは
「よこたふ」にあるように
思いました。


この句は、
芭蕉が、
海の向こうに佐渡島が見える、
新潟の地にいるときに
作られたものだそうです。


つまり、芭蕉の目には、
海を隔てた、向こう側に、
横に大きく広がる(横たわる)佐渡島が見えています。


また、上に目を転じると、
空の高いところには、
あまのがわが広がっています(横たわっています)。


私は、ここで、
「平行線」という言葉を連想しました。


つまり、
「芭蕉がいるところ」と佐渡島、
あるいは、
「芭蕉がいるところ」と天の川は
平行線で、
どこまで行っても交わることがない、
といったイメージです。


すなわち、
それぞれが独立している、
といった感じです。


「荒海や」は、
芭蕉の心を表していて、
このとき、
芭蕉の心は
穏やかではなかったのでしょう。


しかし、
「それぞれは独立しているんだ」
と気づくことによって、
芭蕉の心は軽くなった、と
私には思われました。


この句の後には、
次のような句が登場します。


  一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月


私は、この句のポイントは、
「萩と月」にあると思います。


萩と月を並列する場合、
普通は、月が先に来るのではないでしょうか。
「月とすっぽん」という言葉もあります。


ところが、この句は、
萩が先に来ています。


これはどういうことでしょうか。


私は、
「それぞれは独立している」ことに気付いた芭蕉が、
あえて萩を先にもってきたのだと解釈します。


萩と月とを比較して、
萩よりも月をよしとするのは、
人の一つの価値判断にすぎません。


というより、
二つのものを比較して、
一方が他方よりも優れている
と決めつけることに
どれほど意味があるのでしょうか。


ですから、本当は、人も、
あの人のようになりたい、と
他人のことをうらやんだり、
あの人よりはましだ、と
他人のことをさげすんだりする必要はないのです。


第一、萩や月自身、
どちらが上で、どちらが下かなど、
気にしたことがあるでしょうか。


そんなことを気にするのは
人間だけです。


だから、
遊女さん、
あなたも
ただ、あなたの道を進めばよいのです、
といった気持ちで、
芭蕉はこの句をつくった、と
私には思われました。


以上、
かなり自由に
想像力を働かせてみました。


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犬のおまわりさん

童謡「犬のおまわりさん」を
聞く機会があり、
改めて、
その歌詞を
最後まで じっくりと見てみました。


すると、
この歌は、
私たちがよく知る、
「ただ鳴いてばかりいる子猫ちゃんを前にして、
犬のおまわりさんが困り果てて途方に暮れてしまう」
という1番の歌詞から
特に話が展開することもなく
終わってしまう、
ということを知りました。


いったい、どうして
このような歌詞が
思い浮かんだのでしょう。


私は、そのことが
すごく不思議に思われてきて、
少し想像力の翼を膨らませてみました。


以下の文章は、
ただ私が想像したものです。


おそらく
この歌の作詞者さんは、
「ただただ心細そうに泣き続ける子猫のそばに
やってきた親切な犬」
の光景を実際に目撃したのではないでしょうか。


その犬は、
鳴き続ける猫のために
いろいろしてあげたのかもしれません。


しかし、
子猫はいっこうに鳴きやみません。


ついに、
万策尽きはてた犬ではありますが、
それでも
子猫のそばを離れようとはしません。
いつまでも
子猫のそばに寄りそっています。


この一部始終を目撃した
作詞者さんは、
「何か美しいものを見たな」
と感じたのではないでしょうか。


確かに、
この犬は、
子猫がかかえていた問題を
何も解決してあげることはできませんでした。
しかし、
そんなことよりも
もっと大切な何かを
この犬は見せてくれたのではないでしょうか。


しばらくして
作詞者さんの頭の中に
「犬のおまわりさん」の歌詞が生まれました。


以上は、
ただ私が想像しただけのものにすぎないのですが、
一応、書いてみました。


いぬのおまわりさん 童謡(どうよう)日本の歌(にほんのうた)|♬まいごのまいごの こねこちゃん



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