元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

ドブネズミと私


ドブネズミみたいに 美しくなりたい

写真には写らない 美しさがあるから


↑は、
ブルーハーツの「リンダ リンダ」の
冒頭部分です。


ブルーハーツの歌詞は印象に残るものが多いですが、
その中でも↑の歌詞は
私にとって、なんだか特別な響きがあります。


↑の歌詞の
意味するところを
私なりに考えてみました。以下で述べたいと思います。




ただ、私は、
ドブネズミというものを
多分まだ見たことがないと思うので、
「ドブネズミ」のままでは
この歌詞の意味するところを考えるのは難しそうです。


そこで、
「ドブネズミ」を「ゴキブリ」にかえて
考えてみたいと思います。


私にとって、今、最も見たくない(出てきてほしくない)生き物といえば、
それは「ゴキブリ」です。
「ドブネズミ」は、多分、そのようなニュアンスで使われていると想像しまして、
ここでは、「ドブネズミ」を「ゴキブリ」に置き換えて
考えてみたいと思います。


すると、
「ゴキブリみたいに美しくなりたい」となりますが、
これはどういうことでしょうか。


現時点で、私にとってゴキブリは、最も忌み嫌っている生き物です。


ですから、現時点で考えると、
「ゴキブリみたいに美しくなりたい」に共感できる部分は
まったくありません。


しかし、小学校の低学年の頃の私を思い起こすと、
その頃の私は、ゴキブリを、今ほど忌み嫌っていたでしょうか。


私の記憶では、当時は、
突然、ゴキブリが出てきても、
私は、両親が騒ぐほどには、
驚いたり、嫌な気持ちになったりしていなかったように思います。
むしろ、大人はどうしてゴキブリに対して
こんなに大騒ぎするのだろうと
少し不思議に思っていたような記憶もあります。


しかし、その後、
どういうわけか、
ゴキブリに対する嫌悪感は成長していき、
今では、ゴキブリに対して、
両親とまったく同じ反応をするようになっています。


これは一体どういうことでしょうか。


小学生のころの感じ方が本当なのでしょうか。
それとも、
現在の感じ方が本当なのでしょうか。


私は、やはり、
小学生のころの感じ方のほうが本当であるように思います。


それでは、現在の感じ方は何なのでしょうか。


それは、おそらく、その人が
子供から大人へと成長する間に、
その人に係わる大人たちが次から次へと教えてくれた
数々の常識やルールを
その人が受け入れ、自分のものとしていく中で
出来あがったものなのだと思います。


つまり、
大人が、
これは自分の考えや感じ方であると信じているものは、
実は、
社会から強制的に与えられたものにすぎない、
ともいえるのです。


私たちが、
ある程度 自らの意思で、自由に考えたり感じたりすることができていたのは、
遠い昔、せいぜい小学校の低学年ぐらいまでのことだったのではないでしょうか。


そして
私たちが
次に、
社会から与えられた常識や価値観から解放されて
自由になるのは、
死を迎えてからということになるのかもしれません。


そうすると、
人は 死んで ようやく自由になる、
といえるのかもしれません。


それと比べると、
ゴキブリやドブネズミは、
どんな常識や価値観にも縛られていません。


まったくの自由です。
自らに正直に生きています。


私たちが
ゴキブリやドブネズミを見て嫌悪感を抱くのは、
もしかしたら、
私たちと正反対の世界に生きている
ゴキブリやドブネズミのことを
畏怖しているからなのかもしれません。


彼らは、ほぼ誰の影響も受けていないでしょう。
自らの
むき出しの考えや本能のままに生きています。


彼らは、
人間なんかよりも
よっぽど
(本能を含む)自らのことを
信じているのかもしれません。


人間は、
彼らの、そのような一面に、
できるだけ目を向けないようにしているのではないでしょうか。
しかし、
そこに、ふと目を向けたとき、
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」
という歌詞が、
自然と出てきたのではないでしょうか。




以上、
ほとんど妄想に近い、
私の考えを述べさせていただきました。


ただ、
私は、だからといって、↑のような 人の特徴を
全否定しているわけではありません。


それどころか、
人類の文明がここまで発展したのは、
↑のような特徴を人が持っていたからであると考えます。


少し不自然で偏ったところはありますが、
↑のような特徴をもっていればこその人類であることは
間違いないように思われます。


が、
私のような、
不器用で、視野が狭い人間の場合は、
そのような人間世界の中で普通に生きていたのでは、
どうしても置いてけぼりにされがちになるので、
少し注意が必要であるのだと思います。


よって、私のような者には、
もう少し、「何か」を 誰かに
補足してもらう必要があるのかもしれません。


「周りの大人たちは、
かたくて まっすぐなものだけで この世はできている
と言っているけど、
本当はそうではない。
世の中の半分は、
やわらかくて なまなましいもの(=ドブネズミで象徴されるもの)でできている」


この歌詞から受け取った↑のようなメッセージは、
間違いなく、私にとって、
その 「何か」の一つであったように思います。





リンダリンダ / THE BLUE HEARTS / TV





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LET IT BE

ひきこもりを経験することになったような人は、
これまでの人生で
いろいろとつらくて悲しい思いをすることが多かったに違いない。


自分はどうしてこんななのだろう、
なんで生まれてきたのだろう、
とまで思っている人もいるかもしれない。



しかし、私は、少なくとも、次のようなことは言えるのではないかと思う。


あなたが生まれてきたということは、過去のどの時代においても、
あなたのような特徴をもった女の人を好きになった男の人がいた
(あるいは、
あなたのような特徴をもった男の人を好きになった女の人がいた)
ということなのである。


もし私たちがもつ、このような特徴が、人類にとって全く必要ないものであったとしたら、
↑のように、異性に選ばれ続けるということが起こるはずはない。
私たちのような特徴をもつ人たちは、とっくの昔に滅んでいたはずである。


しかし、実際は、そうではないのである。
私たちのような人間は、少数派ではあるかもしれないが、
それでも確実に現在でも存在するのである。


この事実は、すべてを物語っているのではないだろうか。


私たちのような人間が存在することには何か意味があるのである。
何か意味があるから残ったのである。



だから私たちは、
逆風の中でも自分ができることを見つけ出して、
堂々と生きていればよいのである。


少しずつ、
社会の中でできることを探していけばよいのである。


そのうち、
あなたにしかできない、社会の中での役割が
見えてくるかもしれない。



もちろん、
だからと言って、無理をすることはない。
あせることはない。


それでなくとも
あなたは、誰かが作ってくれた道を進んでいくのではなく、
自分で道を切り開いて進んでいく、という
難しい作業に挑戦しているのだから。


逃げなければならないとき、休まなければならないときは
必ずやってくるだろう。
その時は、堂々と、そうすればよいのである。



何も心配することはない
なるようになる


少なくとも私はそう信じる。






Hito ni Yasashiku (人にやさしく) - THE BLUE HEARTS [English Subs]






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己を知る

彼を知り 己を知る者は、百戦あやうからず


↑の言葉は、兵法書『孫子』の謀攻篇に出てきます。
受験のときなどに、この言葉を知った人は多いのではないでしょうか。


しかし、この言葉には続きがあります。
続きは以下の通りです。


彼を知らざれども 己を知るは、一勝一負す



彼を知らず 己を知らざるは、戦うごとに必ずあやうし


↑の言葉を知らない人は意外と多いのではないでしょうか。


私は、↑の
「彼を知らざれども己を知るは、一勝一負す」という言葉は、
人と接することが苦手な人やひきこもりがちな人に
勇気を与えるものなのではないかと感じています。


それは、以下の理由によります。

人と接するのが苦手な人というのは、
人との交流が少なくなるかわりに、
自分の内面と向き合う時間が長くなる傾向にあります。


中には、
「自分は人と交流する時間は短いが、
だからといって別に
自分の内面と向き合う時間が長いわけではない」
と反論されるかたもいるかもしれませんが、
私はそんなことはないと思います。


何も考えずにい続けることが非常に難しい以上、
やはり、人と接する時間が少ない人は、
その分、自分の内面と向き合う時間が長くなっていると思うのです。


つまり、
人と接するのが苦手な人は、
↑の言葉の「彼を知らざれども己を知る」人に当たるのです。


『孫子』の著者である孫武は、
そのような(=彼を知らざれども己を知る)人は一勝一負す、
と言っています。


つまり、
そのような人が
例えば、社会に出ると、
半分のことはできないかもしれないが、
あとの半分のことはできるだろう、
と言っているのです。




それなのに
人と接することが苦手な人やひきこもりがちな人の大部分は、
自分のことを
↑の言葉の「彼を知らず己を知らざる」人と
思い込んでしまっているのではないでしょうか。


そして、
「戦うごとに必ずあやうし」だと
自己評価を不当に低くしてしまっているのではないでしょうか。


本当は、そうではないのです。
人と接することが苦手な人やひきこもりがちな人は、
「彼を知らざれども己を知る」人なのです。


そして、
社会には、
人と接するのが得意な人だけでなく、
人と接するのが苦手な人も
必要なのです。





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