元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

「朝三暮四」を考える

『荘子』内篇、齊物論篇(せいぶつろんへん)に、
有名な「朝三暮四」の話が出てくる箇所があります。
そこを私なりに、以下のように訳してみました。


  〈原文〉
  勞神明為一而不知其同也、謂之朝三。
  何謂朝三?
  狙公賦芧、曰、「朝三而暮四。」
  衆狙皆怒。
  曰、「然則朝四而暮三。」
  衆狙皆悦。
  名実未虧而喜怒為用、亦因是也。
  
  〈訳〉
   (人は、意見の違う人を説き伏せて、自分の意見と)同一にしようと
  神経をすり減らしているが、(そもそも、まったく違うように見える
  自他の意見自体が)実は同じものであることを知らない。これを「朝三」
  という。
   「朝三」とはどういうことか。(それは次のような話である。)
   (朝、)猿回しの親方が猿たちに芧(とち)の実を与える際に、「朝
  に三つ、夕方に四つやろう」と言った。
   猿たちはみな怒った。
   そこで親方は、「それならば朝に四つ、夕方に三つではどうか」と言
  った。
   すると、猿たちはみな喜んだ。
   結局は同じことを言っているのに、一方では喜び他方では怒ることに
  なるのは、やはり(先入観・主観にとらわれて歪んだ)是非の判断に依
  拠するからである。


この説話が言いたいのは、
「目先の利に目がくらんではいけませんよ」ということでしょうか。
確かに、そのような読み方もできますが、
私は、この説話には、もっと重要な教訓があるように思います。


荘子がこの説話で一番伝えたかったのは、
「人というのは、自分たちが思うよりも、
先入観・主観にとらわれた、
歪んだものの見方・考え方をしているんですよ」
ということだったと思います。




心理学を勉強すると、
「ミュラー・リエールの錯視」(↓図1)というものに出会います。



①の線分abと、②の線分cdの長さはまったく同一なのですが、
なぜか、ほとんどの人が②の線分cdのほうが長いと感じます。


これは、①と②の線分の両端についた
「外向きの矢印」と「内向きの矢印」に
惑わされた結果だそうです。



これは少し極端な例かもしれませんが、
「私たちは、
先入観・主観などを通して物を見るので、
自分が思っているよりも
実物どおりに物事が見えていないときもある」
ということはできるのではないでしょうか。


それでは、
私たちは、先入観・主観をなくすように
努力すべきなのでしょうか。


私は、そうではないと思います。
荘子も、そんなことは不可能である、
と考えていたのではないでしょうか。


私たちがすべきことは、
「私たちは、
先入観・主観などを通して物を見ているので、
自分たちが思っているよりも
実物どおりに物事が見えていないときもあるんだ」
という視点をもつことではないでしょうか。


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