元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

生きてることに意味がある

久しぶりに投稿します。
よろしくお願いします。



自分って 本当に なんのために生きているんだろう?


自分なんて 別に いてもいなくても同じような気がするんだけど・・・



などと 考えたことがある人はいないでしょうか?


私は 時々 そのように考えてしまうことがあります。



この問いに対する答えで、なかなか すっきりと 自分自身を納得させられるような解答というものは存在しないように思われますので、
このような疑問が頭に浮かぶたびに、私は なんだか憂鬱で自暴自棄な気分にならざるをえませんでした。



しかし、最近、この疑問に対する 自分なりの解答を用意できるようになりましたので、ここで少し紹介させていただきます。



そもそも、この宇宙世界は まったく無駄なものを この世に存続させることなど 許してくれるでしょうか? 
少なくとも 私には 決して 許されないように思われます。
私には、この宇宙世界において 存在する意味のないものは 即座に 抹消されてしまうように思われるのです。
本当に たったの1秒ですら 存続を許されないような気がします。


だとすると、まだ この世界に生きているということは、もう それだけで意味があるのです。
いったい なんの意味が、などと考えても そんなこと 分かるわけがありません。
分からなくても、やはり まだ 何か 意味があるから、私たちは この宇宙世界に 生かされているのです。
まったく 意味がなくなれば、すぐに お迎えが来るのではないでしょうか。
それほど この宇宙世界は 無駄なものが存続することを 嫌っているように 私には思われます。


このように考えると、たとえ 自分に価値があるようには どうしても思えないとしても、それでも この宇宙世界の中で 何かの役割が残されているから まだ生きているのです。
もしかすると、将来、「ああ、この時のために 私は生きていたのだな」と思えるような瞬間が訪れるかもしれません。
そのような瞬間が 私たちにも訪れることを願って、今日のお話を終えようと思います。


最後まで つまらないお話に付き合っていただきまして ありがとうございました!

【なるほど!】聖徳太子の憲法十七条

中学や高校の日本史の授業で、
誰もが一度は学習した
聖徳太子の憲法十七条。


特に 冒頭の
「和を以って貴しとなす」は
有名で、
日本人のほとんどの人は
耳にしたことがあるのではないでしょうか。


でも、
「和を以って貴しとなす」以外を知る人は
そんなにいないと思います。


かくいう私も 
「和を以って貴しとなす」以外を知らなかった中の一人です。


今回、たまたま それ以外に
少し目を通してみたのですが、
その内容のすごさに驚きました。


特に 私は
第十条の内容が好きです。


現代の日本人が読んでも
「なるほど」と思うところがあるのではないでしょうか。


第十条の原文


十曰。

絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。

彼是則我非。我是則彼非。

我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。

是非之理 詎能可定。相共賢愚。如鐶无端。

是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。


私の現代語訳


第十条。


そんなに怒りなさんな。
人はそれぞれ違う考えをもっているのです。
そのことを理解しなければなりませんよ。


人にはそれぞれ心があるでしょ。
その心は
それぞれの人が生きてきた環境の中で出来上がったものなのです。


生きてきた環境がまったく同じ人って
いると思いますか?


だとしたら、
それぞれの心が違うものになるのは
当たり前です。


私が
「絶対にこれはよい!」と思うことでも、
それにケチをつける人は必ずいます。


反対に、
誰かが
「絶対にこれはよい!」と自信をもって言っていることでも、
どうしても私にはそれがよいとは思えないということもあります。


これは、
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている
という話ではないのです。


私が正しくて、相手が間違っている
と決めつけることができたら、
どんなに楽でしょう。


でも、そんなわけがないのです。


私も、相手も
それぞれ異なる環境を生きてきた、
ただの人にすぎないのです。


どちらが正しくて、どちらが間違っているかなんて
決めつけることはできません。


どちらが正しくて、どちらが間違っているかなどという議論は、
メリーゴーランドの一番前は誰かを決める議論と同じで、
まったく意味がありません。


このことが理解できたのでしたら、
あなたは、
これからは
誰かと口論になることがあったとしても、
「もしかしたら
相手には私の言うことが
間違って聞こえるのかもしれないな」
と思えるようになるはずです。


あなただけが「絶対にこれはよい!」という
大発見をしたとしても、
全ての人に理解してもらうのはとても無理だと、

自然と
思えるようになるはずです。


理解してくれない人に対しても
その人の意見を大切にしてあげられるだけの
心の余裕をもてるようになるはずです。



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この世界は自分中心に回っている?

自分の場合、
1の努力しかしていないのに、
すぐに、ある程度の結果を期待することがよくある。


冷静に考えたら、
おかしな話だ。


おかしな話なのに、
なぜか、すぐに結果が出ないと 落ち込んでしまい、
自分は やっぱり何をやってもダメなのじゃないかと
簡単に決めつけて、自信を喪失してしまいがちになる。


本当にバカな話である。


私は 本当にバカなのであろうか?


いや、そうじゃないと思う。
多分、自分自身に関することだから、
このような おかしな判断をしてしまうのだ。


多分、自分以外の誰かに関することであれば、
もう少し冷静で賢明な判断ができるはずだ。


結局、自分に関係が深くなれば深くなるほど、
まともな判断ができなくなってしまうということなのだろう。


だとすれば、こういうことなのではないか。


なんだかんだ言っても、
私は、
この世界は自分中心に回っている
と思っているのである。
いい気なものだ。


でも、
私のように思っている人は他にもいるのではないか。


私のようなタイプの人間は、
自分を大切に思う気持ちが強く、
自分が傷つくことを恐れる気持ちが必要以上に強いのだろう。
その結果、
努力の継続をむなしいものと思ったり、
行動が消極的になったりする傾向が強くなるのだと思う。


本当に気を付けなければならない。
このままだと、何もしないまま
人生が終わってしまう。


自分への戒め

少し
自分がかわいい
と思うことから離れなければならない。
そして、少しは
自分が傷つく
ことに慣れなければならない。