元ひきこもりのブログ

2007年まで10年以上ひきこもっていました。
ひきこもっている時はまったく光が見えず 本当につらかったですが、人との出会いなど、様々な幸運に恵まれたおかげで 2008年に社会復帰できて以降、少しずつ活動の範囲を広げています。

現在ひきこもり中で、以前の私のように、外に出るのもつらいという人。
そのような人がこのブログを読んで 少しでも「大丈夫だ」と思っていただければ幸いです。

ひきこもり中、私は相当 絶望的な状態だったと思います。
そんな私でも、ひきこもりを脱することができたのですから、現在うまくいかない人も、きっかけさえつかめば 絶対になんとかなると思います。

親しく話ができる相手を見つけよう!

ひきこもっている人の切実な願いは、
「社会に出て、それなりに活躍したい」
ということだと思う。


当然、ひきこもっていたときの私も、強くそう願っていた。


しかし、そうはいっても、
そのような願いが簡単にかなうものでないことは、
私が嫌というほど分かっている。


それでは、私は、
なぜ、幸運にも、そのような難しい状況を脱して、社会に出ることができたのかを
今、改めて考えてみたい。




まず私の場合、
呼吸法などを教える先生に出会い、
その先生から様々な指導を受けることができたことが幸運であった。
その先生から指導を受けることによって、私は、
自分の症状がいくらかはよくなっていることを実感することができた。


しかし、
自分の症状がよくなっていると実感できた時点でも、
私は、まだ、バイトに行くことが、どうしてもできなかった。
多分、あまりにも長く社会から遠ざかっていたため、
失敗して傷つくイメージしか持てなかったからだと思う。


その後、私は、他県の農業専門学校で寮生活を経験することになるのだが、
もしかすると、この寮生活が、私のターニングポイントになったのかもしれない。


そこの農業専門学校は、若い人ばかりが集っているわけではなかった。
実社会で働いた経験をもつ、年輩のかたもいれば、
中には、社会でつらい経験をしてきたような人もいた。


つまり、約10年も社会から遠ざかっていた私にとっては、
これ以上ないほど恵まれた環境であったのだ。
(どういうことかというと、社会で苦労をしてきたような人は、ひきこもりを経験した、私のような者でも、特に偏見をもたず、平等に接してくれがちであるように私には感じられるのである)


それでも、その時の私は、
人との接し方もほとんど忘れ、
自分に何ひとつ自信がもてない、
すべてが不安である
という酷い状態だったので、
さすがに、すぐには、そのような環境を生かすことはできなかったが、
おそらく周りの人たちが温かく見守ってくれていたからであろう。
少なくとも私はそこから逃げ出したいと思うほどには追い詰められなかった。
そうこうしているうちに、いろいろなものに少しずつ慣れてきて、
徐々に何人かの人たちと話ができるようになってきた。


話をするといっても、最初は、おっかなびっくりで、
自分の話の内容にも自信がもてず、
ただ挨拶に毛がはえた程度の会話で終わることがほとんどだった。


しかし、約3ヶ月が過ぎたころから、
2~3人の人たちとは、結構、長く
話が続くようになってきた。
彼らには、自分のことも比較的詳しく話すことができた。


このように、本当に久しぶりに、(家族や先生以外の)人とまともに話ができたことは、
私に大きな自信を与えた。


この後、実家に帰って、
ようやくバイトに挑戦する決断ができたのだが、
この決断ができたのは、
人と話をして、よい関係を築けたという経験があったからだと思う。
すなわち、人と良い関係を築けたことによって、もたらされた自信が
私の心の支えになったのである。


そして、約10年もひきこもっていた私が、
人と良い関係を築くということに成功できたのは、
様々な経験をしてきた人たちが集まる場所に身を置くことができたからである。




今にして思えば、バイトに挑戦する前の段階で、
人と良い関係を築くという経験をしたことは大きかったと思う。



現在、社会復帰を目指して頑張っているが、
いろいろな壁に阻まれて、少し道に迷っていると
感じているかたは、
少し目先を変えて、
まずは、いろいろと話ができる相手を
探すことから始めてもよいのではないか。


そして、そのような相手は
様々な経験をしてきた、幅広い年齢層の人たちが
集まるような場所で見つかるはずである。


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山の日の朝焼け

今朝の
日の出後の東の空は、
少し綺麗でした。



地面に近いほうは、
紫だちたる雲が たなびいていて、
その間から 朝日のオレンジが見えています。



一方、
中空には、
うろこ雲(すじ雲?)が 軽やかに 漂っています。


少し珍しく感じられましたので、
カメラにおさめました。


ちなみに、この後、
リオ五輪、体操の男子個人総合で、
内村航平選手が大逆転勝利で金メダルを取りました。 


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伊達政宗公の墓所

7月30日(土)の午前、
杜の都・仙台にある
伊達政宗公の墓所に行ってきました。


伊達政宗公の墓所は
瑞鳳殿(ずいほうでん)」と呼ばれています。


瑞鳳殿は、仙台駅の西口から
歩いて30~40分の距離にあります。


瑞鳳殿が近くなってくると、急に
人工感が薄くなり、
自然の中に入っていくような感じになります。



いきなり、結構な急坂から始まります。
観光というより、山登りをしているような感覚です。



石造りの階段の両側には
立派な杉の木が並んでいます。


この杉の木は、
伊達政宗公が亡くなって
間もない頃に植えられたそうですから、
樹齢は約380年ということになります。


ちなみに、
伊達政宗公は、
1636(寛永13)年に亡くなっています。享年は70歳でした。



観覧券売り場を通過し、
涅槃門(ねはんもん)をくぐって、
階段をあがると、



いよいよ
瑞鳳殿が見えてきます。



とにかく、
鮮やかで美しく、
見ていて飽きません。


しかし、
ふと
瑞鳳殿の横に目を向けると、



そこには、
殉死者供養塔なるものが
ひっそりと並んでいました。


伊達政宗公が亡くなったとき、
その後を追って
家臣15名と
家臣に仕えた陪臣5名の
計20名が殉死したそうです。


江戸時代の初期までは、
このような風習があったことを
改めて思い知りました。
ある意味、今回の訪問において、
この石塔群が最も印象に残りました。



最後に、
二代藩主・伊達忠宗(ただむね)公の墓所である
感仙殿(かんせんでん)と、
三代藩主・伊達綱宗(つなむね)公の墓所である
善応殿(ぜんのうでん)とを見学して、
今回の観覧を終えました。



暑い中ではありましたが、
いろいろ考えさせられることもあり、
私にとって大変有意義な訪問でした。


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